100歳以上の高齢者における全国の所在不明は、8月5日の時点で、
70名にちかくのぼっています。
連日報道されている高齢者の所在不明問題について、
高齢者をとりまく現場の取材を続けている専門的な立場からすると、
これまで表面化しなかっただけで、「なるべくして起きた問題」と捉えています。
この背景にはいろいろな問題がありますが、大きな理由のひとつとして、
地域における高齢者の実態把握があまりに手薄になっていたことです。
現在、各地域には地域の高齢者の総合的な相談窓口となる「地域包括支援センター」
がありますが、平成18年4月から始まったこの窓口の職員は、もっと積極的に地域に出て
高齢者の実態把握、つまり地域のお年寄りの顔を見に訪問をするべきなのですが、
これまで同センターの職員(社会福祉士やケアマネジャー、看護師らの専門職)は、
少ない人数のなかで介護予防プラン(介護度が低い人のための介護サービスの
計画を立てる)の作成などに追われ、実態把握まで手がまわらなかった現状があります。
さらに、「地域包括支援センター」ができる前、各地域には「在宅介護支援センター」
という相談窓口がありました(現在も残っている地域はあります)。
在宅介護支援センターでは、高齢者の実態把握に力を入れていたところもありましたが、
全国各地のセンターを取材を通して感じたのは、「地域によって実態把握が熱心なところも
あれば、そうでないところもある」ということでした。
こうした各地域の実態把握の不十分さに国としても対策をとってきませんでした。
ストレートな言い方をすれば「これまで本腰を入れて実態把握をしてこなかった
ツケ」が、今こうして浮上しているともいえるわけです。
何年も親の所在が不明でも「分からないまま」にしておくあまりに希薄な家族関係、
さらに、行方不明者には、いわゆるホ-ムレスになっている人がいる可能性もあり、
貧困問題とも絡み合っています。
今回の事件から派生して、「受給者が亡くなっているのに年金を受けとっていた」ケースや、
反対に「亡くなったと思っていた60代の男性がじつは生きていた」事例も判明しました。
生きていると思っていた人が亡くなっていたり、亡くなったと思っていた人が生きていたり。
「存在の耐えられない軽さ」というタイトルのフランス映画がありましたが、
一連の騒動で「存在の耐えられない<“命”の軽さ」が露呈しています。
国は100歳以上の高齢者の実態把握についてようやく策を講じるようですが、
高齢者の孤独死(家族に囲まれていながらの「孤独」もあるのです)の問題もふまえ、
「100歳」という年齢で線引きをせず積極的に行ってほしいです。
「所在不明」「行方不明」「消息不明」。
この言葉を耳にするたびに、巨大で不気味なゴーストが人さらいをする、
そんな光景を妄想し、背筋が凍る思いです。
そのゴーストの正体は、高齢者の命を、貧困者の命を、
あまりにも軽視してきた社会とそこで蠢く人間の心
なのではないでしょうか。
追伸
宮城県町村議会議長会での講演は無事終了しました。
関係者の皆様に御礼申しあげます。